最近,いくつかの自治体や企業・団体からご依頼を受け,人権研修の講師を務めました。研修のなかで私が触れることにしているのが,ハンセン病国家賠償請求に関する2つの裁判例です(熊本地裁平成13年5月11日判決,熊本地裁令和元年6月28日判決)。いずれの裁判例も様々な論点を含むのですが,私が着目するのは,判決が差別を生んだ「社会構造」に言及している点です。これらの判決では次のとおり説明されています。
「昭和18年頃には,ひとたび,ハンセン病患者やその家族の存在が当該地域社会で認知されると,警察官による取締りや,無らい県運動に関わるなどしてハンセン病患者を隔離収容しなければならないと確信する中上位階層者(地区の有力者や指導階級)による指示指導,さらに,それらの者のハンセン病患者及びその家族に対する差別的な態度の影響を受けることにより,周囲のほぼ全員によるハンセン病患者及びその家族に対する偏見差別が出現する一種の社会構造(社会システム)が築き上げられた。」(令和元年判決)「無らい県運動等のハンセン病政策によって生み出された差別・偏見は、それ以前にあったものとは明らかに性格を異にするもので、ここに、今日まで続くハンセン病患者に対する差別・偏見の原点があるといっても過言ではない。」(平成13年判決)
差別・偏見の原点と指弾されている「無らい県運動」というのは,すべてのハンセン病(らい病)患者を療養所に収容することを目的とし,ハンセン病患者の強制収容を推進した官民一体の運動です。警察や保健所だけでなく,市民もハンセン病と疑わしい人を当局に通報するよう奨励され,患者を見つける役割を担わされていました。
問題は,ここで利用されたのが市民の「善意」だということです。
フェスティンガーというアメリカの心理学者が提唱した「認知的不協和理論」というものがあります。簡単にいうと,人間は2つの矛盾する認知(認識)を抱えた場合,その不協和に耐えかねて,認知の矛盾を何とかして解消しようとする,という仮説です。たとえば,禁煙中の人が1本吸ってしまったときに,「1本吸ってしまった」という認知と「禁煙中である」という認知が不協和を生じるため,後者を「1本吸っただけでは禁煙の妨げにならない」と修正するといった例が分かりやすいと思います。
無らい県運動でも,通報に協力した市民は,対象者が村八分に遭い差別されていくのを見ると良心の呵責を感じたかもしれません。しかし,「通報した」という認知は変えられないため,後悔の気持ちを変更し「自分は社会の公衆衛生に寄与した。良いことをした。」という認識を強めていった人も多いはずです。こうして,市民が善意のうちに差別的政策に加担する「社会構造」が出来上がっていったものと考えられます。
善意のつもりで差別や偏見の助長に寄与してはいまいか――これは決して過去の話などではなく,コロナ禍にある私たちが絶えず自問すべきことです。いまこそ,ハンセン病の裁判例に学ぶときです。