1 駆け出しのころ,「遺産分割事件」という言葉を使って依頼者から叱られたことがあります。曰く,「事件」というと何か犯罪でも起きたみたいではないかとのこと。弁護士など法律家は刑事だけでなく民事の案件も広く「事件」と呼ぶのですが,一般的な感覚からすると違和感があるのだと改めて気付かされました。
法律家の言葉遣いが通常の感覚と乖離するケースは他にもあります。その1つとして,二人称代名詞「あなた」があります。
英語の授業では”You”の対訳の定番ですが,実際に日本語の自然会話で「あなた」が使用される頻度は非常に低いそうです。「上から目線」や「よそよそしさ」などの語感ゆえとも言われます。たしかに,後輩から「あなた」と言われれば何となく不愉快ですし,親しい友人から「あなた」と言われると水臭く感じます。
しかし,翻って弁護士などの法律家が関わる場面を考えると,わりと「あなた」を使っているのではないかという印象と実感があります。とくに法廷での尋問では顕著です。現に,弁護士向けの尋問技術に関する書籍を見ても,尋問例として「あなたは…を見ましたか?」「あなたは…と言いましたね?」など「あなた」のオンパレードです。
2 この背景には何があるのでしょうか。手がかりとなる研究・論考が幾つかあります。
⑴ 1つは,「あなた」という言葉には,特定の話題に関し,聞き手より話し手の方が認識的に優位であるというスタンスを示唆する働きがあるという見解です(下谷2012)。とくに何らかの判断・評価・決断を下す側にある話者が,その判断・評価・決断を受ける側に対して「あなた」を使用する場合が多いとのこと(同前)。最近の言葉だと「マウンティング」の感覚に近いかもしれません。
この見解にしたがえば,法律の専門家である弁護士や裁判官・検察官は,証言台に立つ法律の素人に対し,自らの知識や権威の優位性を背景に「あなた」を用いているという説明が可能です。
⑵ もっとも,弁護士が自分の依頼人や被告人に法廷で質問をする際にも,「あなた」を使うのはどうしてかという疑問は残ります。わざわざ自らの認識的優位性を示す必要はないとも考えられるからです。これに対しては次のような視点が参考となります。
すなわち,日本語では話者と相手の社会的関係性を表示するという原則があるところ(人称表現も「課長」「先生」「お母さん」「〇○君」など話者間の社会関係を示す呼称を用いるのが通常です。),関係表示を伴わない無色の二人称名詞「あなた」は,この原則にそぐわず,その結果,与えられた社会関係を断ち切る・無視するというメッセージを発してしまう,という見解があります(米澤2016)。それゆえ日常会話で「あなた」は回避される傾向があるというわけです。
他方,限られた場面では,これを逆手にとり,敢えて「あなた」を使って日常の関係を遮断することもあります。話し手の特別な意図を相手に伝えるためです。たとえば,母親が子供を叱る際,ふだんの「○〇ちゃん」という呼び名を排し「もうあなたの好きにしなさい」と言えば,子のわがままを容認したのでなく,呆れて突き放しているだけだというニュアンスが効果的に伝わります。
法廷での「あなた」も似たような説明が可能です。ふだん「○○さん」と呼んでいる依頼者や被告人に対し,敢えて「あなた」と呼ぶことで,すでに形成された<依頼者―代理人>という関係を断ち切り,「今は依頼人ではなく,証言者・当事者として話をしてほしい」というメッセージを,弁護士は暗に伝えているのだということができます。
3 以上の説明により,法廷で「あなた」が用いられる語用論的な要因がある程度理解されます。ただ,若干付け加えるならば,尋問技術に関わる次のような事情も背景にあるように思います。
⑴ すなわち,裁判では,尋問の結果が尋問調書という書面に残り,証拠となります。調書では質問と回答が録音反訳や速記により逐語的に文字化されるのが通常です。そのため,弁護士は後々調書で引用されることを意識して,尋問することになります。「右には誰が座っていましたか?」「Aさんです」でも意味は通じますが,敢えて「あなたの右には…」と問うことで,ほかの誰でもなく「あなた」の右にAさんが座っていたのだということが二義なく記録に残ります。通常の会話では省略される人称代名詞を明示する要請が,こうしたところにあるのです。
⑵ そうはいっても,「あなた」以外にも,「○○さん」や「証人」「原告」など他にもっと呼び方があるではないかとも考えられます。たしかに,信用できる証人をして過去の出来事を語らしめる場面はその通りです。しかし,証言の信用性を問題にする場合には,証言される命題よりも,証言するという言語行為を前景化する必要があります。つまり,過去の出来事ではなく,質問者の問いに証人が矛盾した/不自然な/曖昧な…回答をしたという今・ここの出来事に照準したい。その意図を裁判官に伝える標識(弁護士と証人の<私-あなた>という2者関係のなかで今発現している供述態様こそが問題だというサイン)として「あなた」という直示が有効だというわけです。
無論すべての弁護士が「あなた」という呼称を戦略的に用いているわけではないでしょう。しかし,尋問でのやり取りには,通常の会話とは異なり事実認定者たる聞き手――裁判官――がいます。この第三者たる聞き手を意識した談話であるという特殊性が「あなた」の使用に少なからぬ影響を与えているということはできるのだろうと思います。
4 以上,主に尋問で弁護士などが「あなた」を使う理由を考察してきましたが,最近は「あなた」と言わず名前を呼ぶ主義の弁護士も見かけます。言葉は時代とともに変化します。時代遅れとならないよう,言葉には常に敏感でありたいものです。
参考文献
下谷麻記(2012)「自然談話における二人称代名詞「あなた」についての一考察―認識的優位性(Epistemic Primacy)を踏まえて―」『関西外国語大学留学生別科 日本語教育論集』22 pp.63-96.
米澤陽子(2016)「二人称代名詞「あなた」に関する調査報告」『日本語教育』163 pp.64-78.